ツイートと行間

先日、バイト中にすごくいやなことがあった。

接客業なのでこういうことは日常茶飯事ではあるのだが、その日はお客からののしられたのがなんだか無性につらく感じたのだった。

売り場を歩いているときに呼びとめられて対応をした。特にお客にとって不利益なことはなかったが、こじつけるように文句を言われつづけたのだ。

 

はじめのうちは、よくいる言いたいだけ散々言ってすっきりしたい類の人だろうと思ったので、とにかく丁寧に対応して頭を下げて謝って、静まってくれるのを期待した。

しかし私の期待は打ち砕かれ、こちらが申し訳なさそうにへこへこしているのをみると、お客の語気はますます荒くなり、責めの言葉は長くなる一方だった。

 

防衛本能が働いたのか、だんだん視界がホワイトアウトしていき、責め立てる言葉も遠のいていった。

いつお客の話から解放されたのかもはっきり覚えていないが、「上の人間に言っときなさいよ!!」という怒鳴り声を頭の中でぐわんぐわん響かせながら私は仕事に戻っていた。

 

もう何年もここで働いているからお客から怒鳴られることなど慣れているはずだ。

それなのにこの日は帰ってからも気分が晴れず、そのことをずっと考えてしまってつらい気持ちが消えなかった。

 

そのとき思った。

もしまだツイッターを続けていたら、感情の勢いそのままに不満をタイムラインに投げつけていたかもしれない。

感情にまかせて理性を欠いた状態の人間の使う言葉は鋭く尖っていて、人を傷つける。

そんな言葉を不特定多数の人、ましてや親しい人たちが頻繁に見る場に投げていたかもしれないと思うと、6年も続けていたのに今さら恐ろしくなったのだ。

 

それから数日が経ったが、気持ちもおさまって心の中から尖った言葉も消えていった。

どれだけ気が立っていても、ずっとその状態が続くことなどない。一時の感情のままに言葉を吐き出していなくて良かったと思う。

 

今回のことがあって私はツイッターについてあらためて考えていた。

タイムラインにはいろんな人がいるが、確かなのは、その誰とも実際に会っている時間よりもタイムラインで接する時間のほうが長いということだ。

会わない時間より会っている時間が長くなるのは普通に生活していては物理的に不可能なのだから。

 

しかし、その顔の見えない時間を埋めるのがツイートした言葉なのだとしたら、その言葉が、顔の見えないときのその人をつくる主成分だと言えるのではないだろうか。

やさしい言葉、柔らかい言葉、きれいな言葉を使うよう心がけているのと、考えなしにきつい言葉を連投しているのとでは、与える印象やつくられる人物像にずいぶん差が出てくると思う。

 

実際に会って話している時間が、書き物でいう本文だとしたら、顔の見えない時間は行間だ。

そのまっさらな行間を埋めてしまうのがツイッターに書く言葉なら、いまの私には必要ないなと思った。

行間はあるべくしてある空間だから、空けておくことにしたのだ。

だから私はツイッターをやめた。
やめてから20日ほどになるが、調子はなかなか良いように感じる。

 

ただ、いま私には必要ないと思ったのであって、ツイッター自体を否定するつもりはない。

使いようによっては、災害時の情報拡散力の高さなど有用な点もたくさんあるだろう。

 

「行間」をうまく彩って自身をより良くできる人は活用すればいいし、反対に汚してしまうかもしれない人は使わなくていいと思う。

自分のひととなりを表す方法は、各人各様なのだから。