先生はすごい

先生ってすごいなと素直に思うことが、以前よりも増えたような気がする。

 

私はいま大学に通っているのでタイムリーに接しているのは大学の先生、つまり教授や准教授と呼ばれるような人たちである。

 

大学の先生は自分の専門分野を常に研究しつつ学生にもそれを教えているというスタンスのため、そういう観点では教育することが主軸の小中高の先生とはまた性質が違うのかもしれない。

 

別に、誰彼かまわずすごいと思うわけではない。

授業を受けても普段の行動や人柄をみてもまったく尊敬できないなと思う先生もいる。

 

しかしそんななかでも講義を受けていて、その専門分野を熟知しているからこそ語れるのであろうこぼれ話が出てきたり、その分野が好きだからやっているんだという気持ちが伝わってきたりして、すごいなと思える先生もたくさんいる。

 

そういう先生の言葉は熱を帯びていて脳にダイレクトに届く。

その熱は私にも伝わって、先生がその分野を好きなように、私もなんだかその分野がかけがえのないもののように思えてくるのだ。

リスペクトする先生の授業は分野の得意不得意関係なく惹き込まれるし、おもしろい。

 

今でこそ素直に先生ってすごいなと思えるが、私はこれまで先生という存在をあまり尊敬していなかった。 

わけもなく反抗していたとかではない。

本当に偶然なのだが、小学校から大学までなぜか私の通っている学校では先生による不祥事が相次いで起こった。

はじめのほうはショックも受けていたが、3人目4人目となるともう、あぁまたかと諦めの気持ちしか湧かなくなった。

 

先生は私が思っていたような人たちではなくて、ただの人間なんだと思った。

そのうち私は、先生という存在にはじめから期待も尊敬もしないようになっていた。 

 

そんなことがあって、大学に入ってからも最近までは先生たちをリスペクトする気持ちはあまり持てなかった。

 

しかしこのごろ、授業を受けているときや先生のようすを見ていて、あぁ先生ってすごい仕事なんだなと思わされることが多くなったのだ。

 

ちょうど1年ほど前にやめてしまったのだが、私は一時期教職課程の授業を取っていた。

ひとつの授業の指導案を作るのがどれだけ大変かということや、教科研究にたゆまぬ努力をし続けなければならないということを知るきっかけとなった。

学生の立場で授業を受け続けていたら、きっと考えの及ばない領域だろう。

 

その経験があったから先生と授業の見方も変わって、すごいと思えるようなところに気づくことができるようになったのかもしれない。

 

今期から世界の生活に根ざした文化を学ぶ授業を取っているのだが、初回と第2回が休講となった。

その振り替えが今まで出たこともない6限の時間にされ、私は重い足を引きずって授業へ行った。

授業がはじまる前から私はもうぐったりしていたが、先生はというと疲れたそぶりは一切見せず、ハツラツと講義をしていた。

しかもその日の講義内容と絡んでいたのでわかったのだが、先生はベジタリアンの生活を体験するために海外へ行っていて、それがはじめのほうの授業が休講になった理由なのだった。

その先生は細身の女性なのだが、なんてタフなのだろうと思った。

休講の理由も自身の研究のためだったら文句のつけようもない。

むしろ、その先生が自らの確かな経験をもとにして世界の文化を語っているのであれば、授業の説得力も増すというものである。

 

短歌の授業ではこんな話があった。

短歌の分類で「挽歌」というものがある。

人の死を悲しむ歌、死者を悼む歌がこれに分類されるのだが、なぜ「挽く歌」なのだろう。

これは柩を「挽く」人の歌だから「挽歌」なのだ。

柩を挽く人が詠む歌というところから、広く人の死を悲しむ歌、死者を悼む歌のことをさすようになったそうだ。

私の知識不足が過ぎるのかもしれないが、このようなこぼれ話をよくこの先生は授業の中でしてくれる。

細かな知識をさらっと組み込めるところに、いつも造詣の深さを感じている。

 

日本語を研究する授業では、授業に直接は関係なかったのだがこんなことを聞いた。

卒業式で歌われることの多かった「仰げば尊し」に「いまこそわかれめ」という一節がある。

これを漢字にする際、わかれめの「め」を漢字の「目」にしてはいけないという話だった。

ここでのわかれめというのは「分かれ目」ではなく、今「こそ」との係り結びの「め」で、推量・意志の「む(ん)」の已然形なのである。

したがって、別れましょうの意味になる。

こんなことは知らなくても歌うだけであれば支障はないかもしれない。

でも、こういう細かな知識を持っていることは日本語をわざわざ大学でも勉強する学生としての皆さんのアイデンティティになるのだとその先生は言っていた。

ただ教えるだけではなくて、なぜそれを知るべきなのかまで丁寧に話してくれる先生ははじめてだった。

私は最後まで休まずこの先生の授業に出ようと思ったし、この先生のことをとても尊敬している。

 

いろいろな授業を受けているが毎日その端々で、こんな細かなことでもなにかしら感動することがある。

学んでいる内容で心が動くということは、やはり私はこの学科の分野が好きなのだと再確認させられる。

 

先生の地位がかつてより低くなったといわれる昨今ではあるが、魅力的な分野を研究しつづけ、その知識を私たちに授けて感動させることのできる先生という人たちは、やっぱりすごいなと思わざるを得ないのだ。