あたたかさを求める

最近、朝夕だけでなく昼間にも冷たい風が吹くような日が増えてきた。

空気も乾燥していて、洗顔後の顔のツッパリがひどい。

つい1週間ほど前まで30℃くらいに気温が上がって夏が悪あがきをしていた今年でも、秋が来て冬になるという自然の摂理から逃れることはできないようだ。

 

この時期になるとみんな、さびしい、人肌恋しい、かなしい、切ないと哀愁の心を口にしはじめる。

私も例に漏れずこの時期にはそんな気持ちになることが多い。

日の落ちる早さにも気温の下がる早さにもついていけないまま、まだ衣替えの済んでいない薄着の心はうっかりしていると風邪なんかを引きそうにもなる。

そして寒くなるこの時期に変化が表れるのは心の中のことだけではない。

 

人間は恒温動物だ。体温を維持するために、動いていなくてもエネルギーを使う。

そのため気温の高い夏よりも冬の方がカロリーを消費するため身体が痩せやすいらしい。

 

だが私はこれに当てはまらない。

毎年、夏にいちばん体重が軽くなって、冬には一気に体重が増えてしまうのだ。

あまり体重が増減するのは健康的ではない気がしてこの傾向を直したいのだが、なぜか毎年このように変動してしまう。

 

なぜ冬に体重が増えてしまうのか、考えてみた。

体重が増えるということは、当たり前だがほかの季節よりも食べ物を多く食べているということだ。

もともとそんなに食べるほうではないが、私の基準では普段よりも食べる量が多くなっている。

なぜ私は寒い冬になるとたくさん食べ物を食べてしまうのだろう。

もしかしたら、冬眠をする動物のように本能レベルで身体が動いて、冬に向けてエネルギーを蓄えるためたくさん食べるようになっているのかもしれない。

 

たしかに、寒いと多くエネルギーが消費される。体温を奪い、私たちを弱らせる。

冬の寒さは遠慮無しに、私たちの生命力を削ってくるのだ。

 

考えてみれば私はこの、生命力が削られる感覚が怖いのかもしれない。

 

私は末端冷え性で、このごろの時期から春先まではいつも指先や爪先が冷えている。

自分の身体から体温が外に溶け出してしまって、戻ってこないのがなんとなく怖いのだ。

 

体温があるということは、命が維持されている証でもある。

人間は死ぬと身体がどんどん冷たくなっていく。

そして体温が再びその身体に戻ることはない。

 

体温が奪われることで、私は生命力が削られていくような感覚に陥るのだ。心身ともに弱っていくのを感じる。

だから、寒い冬になるとそれが怖くて、体温を作り出すエネルギーを切らしてはいけないと、いつもより多く食べ物を食べてしまうのだろう。

 

もうひとつ、なんとなく冬が怖いと思うのには心あたりがある。私の親族が亡くなる季節はたいてい寒さの厳しい季節なのだ。

まだ私はそんなに長く生きてきたわけではないから、たくさん人の死に接したことはない。

しかし、少ないその記憶をたどって思い返してみても、その悲しい場面は毎回といっていいほど冷たい風の吹きつける季節なのだ。

 

偶然ではあるがそういう傾向があるため、私のなかでは冬は生命が尽きる季節でもあるというイメージができてしまった。

 

暖かい季節には忘れたと思っていても、寒くなってくると毎年かならずこのことが胸によぎる。

だから、本能レベルで私は冬を怖がっているのかもしれない。

 

それらのことを考えると、寒い冬に私の体重が増えてしまうのは自分の思う生命力の象徴である体温を絶やさないために、自然と食べ物をたくさん食べているからなのだろう。

私の、生きていくための防衛本能が働いてのことだった。

 

とはいえ、これは私の感覚に限ったことではないような気もする。

みんなの心に

さびしい、人肌恋しい、かなしい、切ない

というような感情が湧いてくるのも、寒さの厳しい季節をむかえるために、体温を分けあう誰かを欲しているからなのではないだろうか。

 

誰かと一緒にいると、触れている肩は温かいし、心も温もっていく。

一緒にご飯を食べるとその温かさを分けあって、体温もいつもよりたくさん作られる気がする。

くり返すが、体温は生命力の象徴だと思う。

きっと、みんな簡単に失われぬようにより温かな生命力を求めて、寒い季節に誰かの体温を欲するのかもしれない。

 

もうすぐ、寒さの冬が訪れる。

今年、私の体温は冷えた街の空気にどれだけ溶け出していくだろう。

私の身体に戻ってこなくても、それはそれで仕方ない。

その分、温かくて美味しいものを食べてまた体温を作ろう。

溶け出した体温がもし回りまわって誰かを暖めていたなら、少しばかり体重が増えるのも無駄ではなくて、悪くないことのように思える。