教へぬものの中にあらまし

先日、大学の授業で与謝野晶子のこんな短歌が取り上げられた。

「凋落も春の盛りのあることも教へぬもののなかにあらまし」『太陽と薔薇』より

先生曰くこの歌は、晶子が文化学院の学監(校長)としての目線で詠んだ歌だそうだ。

 

人生には凋落(衰えること)するときも春の盛りのように最盛期を迎えるときもある。だがそのようなことは学生たちが自らの経験を通して自覚すべきであり、私が教えないことであってほしい(教えることであってほしくない)ものである、というようなことが詠まれている。

 

私はこの歌を聞いて、こういう、大人になっていく間に自分で経験しなくては知り得ないようなことって他にもたくさんあるなと思った。

例えばこのとき私の頭に浮かんだのはこんなことである。


小さいころ、大人からこんなことを言われた経験はないだろうか。

うそつきはドロボーのはじまりだよ。

私はこれをよく親から言われて育った。自分で言うのもなんだが今でもわりと正直者の性格ではあると思う。

悪意を持ってうそをついた記憶はすぐには浮かばないくらい無い。

もっとも、自分に悪意がなくても相手が気分を悪くしていたことはあるかもしれないが(これがいちばんタチの悪いパターンかもしれないが今はその話ではない)。

 

とは言え、うそをついてはいけないとキッパリ言えるのは、様々なしがらみのなかへ飛び込んでいく前の、子どものときだけだなと思う。

様々な人たちと関わっていくなかで、そのように在ることがまかり通るのは、ほんとうに子ども時代に限られるなと思うのだ。

 

小学生のとき読むのにハマっていたことわざ・慣用句辞典のなかでも、なんだかイマイチよくわからなかった「嘘も方便」という言葉は今になって痛いほど身にしみる。

なぜ歳をとるにつれて、この言葉が馴染んでくるのだろうか。

最近悩んでいることもそれに関連しているので、ずっと考えていた。

 

私にはある大事な友達がいる。その子との付き合いはもう数年になり、会わない月はないくらい頻繁に遊んでいる。

今まで学校が一緒だったわけでも、バイト先が一緒なわけでもないが、今では気の置けない間柄だ。

その友達にはある大事な人がいて、その人のことを私も一方的にではあるが知っている。

登場人物が増えてきたので私の友達を仮にKちゃん、Kちゃんの大事な人をNさんとしよう。

直接聞いたわけではないが、KちゃんもNさんも互いを大事に思い合っているようだった。

あるとき私は知り合いとご飯を食べに行って話をしていた。その知り合いの人は、Nさんの友達でもある人だ。

私もNさんのことを知っているので、会話の流れで自然とNさんの話題になった。
そのとき知り合いが話しはじめたのは、どうやらNさんが今やっている仕事をもうじき辞めるらしいという話だった。

Nさんの仕事はこの頃は軌道に乗っているように見えていたので、私はそれを聞いてとても驚いた。初耳だった。

そして真っ先にKちゃんの顔が頭に浮かんだ。Kちゃんはこのことを知っていたのだろうか。

KちゃんはNさんについてよく私に話していたので、そんな大きな動きがあったならすぐに言ってくるはずなのだ。

Kちゃんはもしかしたらまだこのことを知らないかもしれないと思った。

その後日Kちゃんと会う機会があり、私はKちゃんの話しぶりからしてなんとなく、やはりまだ知らないのだろうなと察した。

KちゃんはNさんがその仕事で活躍している姿も含めて慕っていたので、その日もその仕事ぶりについて話していた。私はそれを聞いていて、とても歯がゆい気持ちだった。

「あのね、Nさん、今の仕事辞めるらしいんだって。」という言葉が出かかって、思いとどまった。すんでの所で考えることができた。

 

こんな大事なことをNさんがKちゃんに話さないわけがない。

でもKちゃんの様子をうかがった限りではやはり知らなそうだ。

なぜNさんはまだKちゃんに言っていないのだろう。

もしかしたらまだタイミングを決めかねていて、そのうちにちゃんと自分の口で話すつもりなのかもしれない。
それならば、はしなくもKちゃんより先にそのことを知ったからといって、これは私が伝えるべきではなく、Nさんから聞かされるべきなのだ。


何でもかんでも本当のことを言えばいいってもんじゃない。

私はNさんの退職のことについて何も知らないという体を装うことにした。

 

それから1ヶ月以上経っているが、Kちゃんはまだ本当のことを知らないようで、私はずっと歯がゆい思いをし続けている。

それでも、私の口から話すべきではないという考えは未だ変わっていない。

今ほど「嘘も方便」を噛みしめているときはない。

 

だが、こんなときにどうしたらいいかなんて学校では教えてくれなくて、どうしても自分で苦い経験も甘い経験もして知っていくしかないのだろう。

私の経験したこういうことも、晶子の言う「教へぬもの」のうちのひとつだと言えるのかもしれない。