タマネギの天職

私の大学の夏休みは7月下旬から9月下旬までの、約2ヶ月間ある。
期末試験やレポートからの解放感で、始めのうちはとても楽しいものである。ずっと夏休みが続いたらいいのになぁなんて思ったりもする。

だがこれが9月の頭くらいになってくると、あまりにも休みが長すぎて心が荒んでくる。
2ヶ月間も授業がないと、もはや自分が大学生であるというアイデンティティーすら揺らぎ始めるのだ。

こうなるのはもう毎年のことである。今年の夏休みも例にもれず、最後の方は頭がおかしくなりそうだった。
何でもいいから何かしたい。没頭できるなにかがないと、スマホの光に脳が殺されそうだった。そこで、ちょうどいいなと思ってやりはじめたのが料理だ。

毎日のようにできて、作っている時間はそれに没頭できるのがよかった。
こうして私は夏休み後半で家にいられる日は、頻繁に家族の晩ごはんを作るようになった。

 

毎日のように晩ごはんを作っていて思ったのだが、人間って料理にタマネギを使いすぎではないだろうか。
何気なく人が作ったものを食べていても今まで気にしたことがなかったが、どんなジャンルの料理にもだいたい使われていて、他の野菜とくらべてもその登場率はかなり高いように感じる。

一般的な家庭料理だけで考えても、
味噌汁、肉じゃが、カレー、スープ(洋風、中華風など)、酢豚、マリネ、野菜炒め、生姜焼き、グラタン等々…
煮たり焼いたり生だったり、実にいろんな料理に使われている。

 

ある日の夕方、私はドライカレーを作るのに、5種類くらいの野菜をひたすらみじん切りしていた。
様々な種類の野菜を準備していたが、その中でタマネギは、どうぞみじん切りしてくださいとでも言わんばかりの造りをしているなと思った。
皮が何枚も何枚も重なってできていて、何もしなくてもすでにスライスされているような状態なのである。
他の野菜をみじん切りにするにははじめに薄く切る手順がいるが、タマネギの場合はその必要がない。
f:id:mtkd831:20161006232831p:image

縦半分にしてそれをまた縦横に細く切っただけでも、ある程度バラバラと細かくなってくれるのだ。もうこれはタマネギがみじん切りにしてくれと言っているとしか思えない。

味に関してもそうだ。生で食べることもあるが、基本的にはそのままだと辛みが強い。
炒めればその辛みが飛んで、やさしい甘味が出てくる。これもきっとタマネギが火を通して食べてくれと言っているのではないかと思わされる。

ただ面白いことにタマネギには、料理する上で避けては通れない、切るときに涙が出るという最大の特徴がある。

こんなに料理するのに適したポイントがたくさんあるにも関わらず、切るときに必ず涙が出るほどに目鼻を攻撃してくるのだ。

あれだけ料理してくれと言っていた(※これは勝手な想像)のに、いざ包丁で切ろうとすると最後の最後で切らないでくれ食べないでくれと、必死に抗ってくるのである。
なんてあまのじゃくな性質を持った野菜なのだろう。

それはともかくとして、タマネギはきっと人間に料理されるべくして存在する野菜なのだなと、私は毎日晩ごはんを作っていて感じたのだ(ちなみに犬や猫にタマネギは毒なので食べられない)。

人間に料理されることはタマネギの天職だと思う。タマネギは生まれながらにして天職をあてがわれているのだ。

私など先に迫った就活に向けて、ここまで生きてきたことを今さら思い返して必死に探さなければ、自分がどんな人だかわからないというのに。
それで自分のやりたいことがわかったとしても、それをできるかもわからないし、ましてや天職だったかどうかなど死ぬころまできっとわからないのだ。

しかし、私にあってタマネギにないものもある。それは職業選択の自由だ。
タマネギはどんな方法であれ最終的には人間の料理に使われてしまう。どれだけ料理人を泣かせても、切られて食べられるのを逃れることはできない。

でも私は私の努力次第で、色々なことに挑戦できる。
不本意に料理されそうになっても、自力で遠くへ逃げられる。

みじん切りをしながら、もうタマネギになってしまいたいなどと泣きながら思った日もあった。
だがそのように考えると、せっかく人間に生まれたからには自力で自分の人生を作っていく感覚を味わってみたいと思える気がするのだ。

私はこれから自分で自分の進路を決めていく。
タマネギを使ってあのとき思ったように、私もそれをすべくして生まれてきた人だと言われるような道を見つけることができるのだろうか。