「ポケモンGOをやらないということ」をやってみた

お題「ポケモンGO」

 

今年の夏ごろだったろうか、それは突如として私たちの前に現れた。

 

ポケモンGO

アメリカの企業と株式会社ポケモンが共同開発したスマートフォン向けのゲームアプリである。

スマートフォンをのぞくと、今までゲーム機の中の世界でだけ会うことのできたポケモンたちが、AR(拡張現実)で自分の住んでいる街に現れるのだ。それをつかまえて集めたり、戦わせたりすることもできる。

 

ポケモンGOは7月の初旬にアメリカやヨーロッパ各国で配信がはじまった。
いち早く遊ぶ海外ユーザーたちの熱狂ぶりは、連日ワイドショーやネットの話題をさらった。

 

このときまだ日本では配信がはじまっておらず、具体的な配信開始日も発表されていなかった。

ほんとうに連日連夜、学校でもバイト先でも、街を歩いていても、ポケモンGOの話をする声があちこちから聞こえていた。

アメリカなどで大騒ぎしているようすがニュースやネットで伝えられて焦らされている状態だったので、余計に拍車がかかっていたのかもしれない。

 

ちょっとこのフィーバー異常なんじゃないかと怖くなるくらいに、みんなが日本での配信を待ちわびていた。
アクセス数をかせぐためなのかなんなのかわからないが、ネットでは毎日のように配信開始日のデマ情報が流れていた。

 

そんな7月もはつかを過ぎたころ、ついに日本国内でもポケモンGOの配信がスタートした。

日本中が色めき立っているのが、肌で感じられた。

ああ、「待望の」っていうのはまさにこういう状態のことなんだなと思った。

 

そんなこんなで街中にトレーナーたちが溢れかえる中、私はポケモンGOをはじめることをしなかった。


ポケットモンスター自体になじみがなかったわけではない。1シリーズだけではあるが、小学生のときにはニンテンドーDSで「パール」を夢中でやっていた。

スマホも、私はi Phone6を使っているので対応している。

「こんなの歩きスマホ助長の権化じゃあないのよ!!」などときつく批判するようなつもりもない(まぁ歩きスマホは危ないんだけど)。


私は、「ポケモンGOをやらないということ」をやってみようと思ったのだ。

 

年齢層に偏りはあるかもしれないが、私の周囲の人間(学校の友達、家族、バイト先の人たち、そのほかの関係の友達など)は八割方ポケモンGOをやっていた。

それぞれの場所で色々な人たちと話していても、引くぐらいにみんなポケモンGOの話しかしなかった。

うちの周りにポッポしかいないだとかイーブイシャワーズにならなかっただとか、なんかもうみんなセリフの中にノルマ3匹ずつぐらいポケモンの名前入れなしばくぞとか脅されてんのかなと思った。

 

私は、国中の人間が一斉にバーチャルなものに夢中になっている現象には、なんだか近未来的な感じがしてわくわくしていたが、同時に少し気味の悪さも感じていた。

少し前までは日本中どころか世界中の誰の日常にもなかったものが、ほんの1ヶ月ほどで一気に多くの人の生活に浸透していったのだ。

 

「あー、ポケモンGO私やってないんですよねー。」

そう言うと学校でもバイト先でも、

「え、なんでやってないのー?」

とさも不思議そうに聞き返された。

ああ、この人たちは、当然みんなポケモンGOをやっているものだ、という前提で話しているんだなと思った。

私も拗ねているわけではないし、その人たちも意地悪くそう言っているわけでは決してない。

 

だが私は今、形式的にではあるが、「仲間はずれ」の状況にあるのだなと思った。
それも、仲間はずれにする側の故意ではなく、される側である私の故意によって発生した状況である。

 

仲間はずれになるなんていつぶりだろう。

中学生くらいのときに部活でされて以来かもしれない。

だが久しぶりにこういう状況を味わって、不思議と悪い気はしなかった。

 

日本中から総動員で仲間はずれにされている。それも、私自身の意思で。

 

事実だけを見るとただ流行にあぶれただけの人のように見えるが、私はこうしようと自分で決めて「ポケモンGOをやらないということ」をやっている状態だと考えていた。

その立場から、当然やっている人が大多数であるかのような顔をした街を見ているのが面白かったのだ(こうやって今あらためて文に起こしてるとほんとヤバい奴みたいな気がしてきたからもう帰りたい)。


結果、はじめから薄々わかっていたような気もするが、自分からなりに行った「仲間はずれ」の状況などしんどくもなんともなかった。

自分で自分に課していることなのだから、つらいはずもないのだった。

 

やっぱり「仲間はずれ」はどこまでも「受動」であって、する側の人の心ない行動でしかなり得ないものなのだなと思った。

 

同じような状況であっても、そこに関わる人間どうしの気持ちの持ちようによって、こんなに差が生まれるのだ。

特別に問題があるわけじゃないけれど、なんだかうまくいかないようなことがあるとしたなら、もしかしたらそれは自分や誰かの心の有り様にその一因があるのかもしれない。

 

これが「ポケモンGOをやらないということ」をやってみて、私が感じたことである。