私が映画を見る「方法」

 

私はあまり映画を見ないほうの人間である。

映画館に足を運ぶことも、人から誘われるとかで年にせいぜい1、2回あれば多いほうだ。
でも、テレビで映画のCMが流れたりすると、面白そうだな、見たいなと思うこともしばしばある。

 

なぜ私があまり映画を見に行かないのか。

それは「映画館で映画を見る」ということに苦手意識があるからだ。

 

 いちばん困るのが、後ろの客に自分の背もたれをボンボン蹴られることだ。

あるときは2時間ずっと蹴られ続けて、まるで映画の内容に集中できなかった。

 

トイレに行きたくなったらどうしようとソワソワするのもいやだ。

私が席を離れてもスクリーンは待ってくれないし、でも喉は渇くから飲み物が欲しくなる。

 

あと、こんなことを言っては無粋かもしれないが、1回の料金が高い。ふつうの日だとだいたい大人1人1800円くらいしただろうか。

私のふところ事情では、そんなにポンポン見ようと思える金額ではない。

 

 

おそらく映画を見るのが趣味でよく映画館に行くような人は、こんなことには慣れっこなのか、またそこまで気にはしていないのだろう。

 

映画館がいやなら、DVDでもレンタルしてきて家でゆっくり見ればいいじゃないかという声が聞こえてきそうだが、私はなんだかもう映画というもの自体に、そこまでするほどではなくなってしまったのだ。

 

先に書いたような理由で映画館に行くことが億劫になってしまい、結局は、映画そのものをあまり好まなくなっていた。

 

  私は、映画という「中身」にふれる前に、それを見るための映画館という「方法」でつまずいてしまったのだ。

 
ちゃんと見たら、もしかしたら劇的に心を動かされるような映画もあるかもしれない。それは私の価値観や人生をも変え得るほどの感動なのかもしれない。


自分でも、その可能性を手放しているのはもったいないような気もしている。

しかし、いったん苦手意識を持ってしまったことを、なんの必要性もなく克服するのは簡単なことではなく、そのまま私は、あまり映画を見ないほうの人間になってしまったのだ。

  

こういうことって、「映画と映画館」の例に限った話ではないような気がする。

 
本来見ようとしている「中身」があって、それが伝わるための「方法」が合わなかったり、なじめなかったりする。

そのせいで、ひょっとしたら自分を豊かにしてくれるかもしれないモノ、コトに出会うことができなくなってしまう。

  

これは、人間のコミュニケーションにおいても当てはまるのではないだろうか。

 

たとえば、私はもともと口の口角が下がり気味な顔をしている。
まわりの人から「真顔がこわい」、「なんか怒ってる?」などと言われることがよくあった。口角が下がっていると、なにかと人に不機嫌な印象をあたえがちなのである。

 

私はさんざんそんなことを言われ続けて、生まれつきの顔なんだから、しかたないでしょ!?
と、内心うんざりしていた。


しかしあるときこう思った。

不機嫌そうに見られていたのは、やはり少なからず自分の中に不機嫌な心があって、それが表情ににじみ出ていたからなのではないだろうか。

 

今までは、好きで真顔がこわいわけでも、怒ってるわけでもないのに、なんでどいつもこいつもそんなこと言ってくるんだと、まわりの人のせいにしてばかりいた。

そのひねくれた心が、結局そのまま表情に表れていたのだと思った。

 

それからは、気のついたときにはできるだけ、口角を上げたり、まなざしを優しくしてみたりして、やわらかい表情でいるのを心がけるようにした。


次第に、「真顔がこわい」と言われることも「怒ってる?」と聞かれることも、少なくなったように思う。

 

怒ってない自分、という「中身」を、まわりの人にちゃんと知ってもらいたい。

そのために、表情という、心を伝えるための「方法」を少し変えてみたのだ。

 

おかげで、自分は不機嫌だという不本意な情報が、まわりの人に伝わらなくて済むようになった。より本来の自分を、相手に受け取ってもらいやすくなった。

 本当の「中身」が伝わるには、それに合ったよい「方法」が必要なのだ。

 

先日、知り合いとの会話のなかで、
「私、映画館で映画見るの苦手なんですよね。」
と、そのワケも合わせて話していた。すると、
「それだったら、ミニシアターとかにしてみたら?客層とかけっこう違うと思うよ。」
と、ある町の小さな映画館を教えてくれた。

 

きっとわざわざ小さな映画館に来るようなお客さんは、本当に映画が好きな人が多いだろうし、館内にも品があるのだろうな。

私がいちばんネックに感じていた、背もたれを蹴られるようなこともほとんどなさそうに思えた。
見たいと思った映画がもし上映されていたら、ミニシアターになら見に行ってみたいかもと、少し思った。

 

もしかしたらそのミニシアターは、私が映画という「中身」にふれるための、いちばんよい「方法」になってくれるのかもしれない。