私たちはみんな「ひとり」だ

 

ひとりカラオケ、ひとり焼肉、ひとり鍋、ひとり映画、ひとり旅etc…

 

近ごろなにかにつけて、もっぱら複数人でやるイメージのあるイベントや食事などをあえてひとりでするときに、
「ひとり◯◯」という感じで、頭に「ひとり」をつけて呼ぶのをよく耳にする。


同じことを3人でやっても4人でやっても、わざわざ頭に「さんにん」や「よにん」をつけて呼ぶことはあまりない。


はじめに挙げたひとりカラオケなんかは、略称である「ヒトカラ」という言葉が若者を中心に定着し、ヒトカラ専門店なるものまで街に増えつつある。

 

私は、同じ何かをするにしても「ひとり」という言葉を冠したとたんに、それが複数人でするのとは違う、なんだか特別なことをしているような印象を纏う気がしている。


いま世間に「ひとり◯◯」という言葉があふれているのも、みんなが「ひとり」という言葉や「ひとり」という状態に、どこか特別さや魅力を感じているからなのではないだろうか。

 


私は小さいころ、ひとりでは何もできないタイプの子だった。幼稚園くらいのときは母親と買い物に出かけると、ぴったりとくっついて決してそばを離れなかった。母親と自分の間に知らない人がひとり入っただけで、はぐれたと思って泣きじゃくったくらいだった。


小学生になっても、ひとりでなにかしようと外に出かけることはできず、出かけるときはいつも誰かしらと一緒にいた。


中学生になって家の鍵を持ち、親からもだんだんと大人の扱いをされるようになってきたので、急にひとりで色々なことをしなくてはならなくなった。


病院に行くのもひとり、買い物に行くのもひとり、電車に乗るのもひとり、髪を切りに行くのも、ひとりになった。

 

今となっては、むしろひとりでするのが普通のことでも、中学生という多感な時期をむかえ、周囲の目を必要以上に気にしがちだった私にとっては、それらがとても困難なことに思えた。

 

なんだかわかんないけど、周りの人から変なヤツに見られたらどうしよう、ファッションに自信もないし、ダサいと思われるかも、キョドってるとことか見られたらいやだなぁ……

こんなことをうだうだ考えて、私は人から変に見られないかばかりを気にしていた。何もひとりでできなかったし、ひとりでどこへも行けなかった。

 

そんな私の意識をガラッと変えたのは、母親のひと言だった。

 

「そんななぁ、あんたが思ってるほど周りの人あんたのこと見てへんで」

 

いまから考えるとそりゃそうだわなと思う。しかし、当時の私にこの言葉が与えた影響は絶大なものだった。それまでの価値観が180度変わってしまうほどの衝撃だった。

 

自分で思うほど、みんなは私のことを見てないんだ!!

 

そう思えたことで、心がとても軽くなった。誰かが自分を見ているかもしれないという不安はうそのように晴れ、もう自分ひとりでどこへだって行けるような気がした。


それをきっかけに考え方がガラッと変わり、私はあんなに怖かった「ひとり」が平気になった。
ひとりで色々なことができるようになり、だんだんと自分に自信もついてきた。

 


大学生になったいま、友達はいるし、学校でも誰かと一緒に過ごしていることのほうが多い。


でも、ひとりで学校へ行き、ひとりで取った授業を受け、ひとりで知らない街を散策し、ひとりでライブハウスに向かい、ひとりで大好きなバンドのライブを見て、他のお客にまぎれてお酒片手にひとりで踊り、またひとりで帰る、という1日も楽しく過ごすことができる。

私はそんな風に「ひとり◯◯」ライフを謳歌している。ときにはひとりで夜行バスに乗り、遠くの地方へライブを見に行くこともある。

 


なんでもかんでも「ひとり」でやることにこだわれば良いわけではない。ディズニーランドに行くなら友達や好きな人と一緒がいいし、どうしても誰かと肩を並べて晩ごはんを食べたい夜もある。

でも、これだけは私ひとりでやりたいんだ、できるんだと思えることを大切にしていれば、何かをするかしないかで迷ったときの判断基準を、人がどうするかではなく自分がどうしたいかというところに置いておくことができると思う。

 


世間には「ひとり◯◯」という言葉があふれている。

ひとりでなにかをするときに、わざわざ「ひとり◯◯してる~~」なんてSNSに書くと、書いたとたんにダサくなるし、わざわざ書く人は、結局ふだんは誰かと一緒じゃないとダメなんだろうなとこの記事を書くまでは思っていた。

でも、そんな人たちも自分なりの「ひとり◯◯」に魅力を見出していて、そしてそれができる自分はちゃんとここにいるんだ!という自信を隠しきれないだけなのかもしれない。
彼らも私も、ほんとうは同じように「ひとり」なのかもしれない。